週間日記(2022/08/01-08/07)

 

2022/08/01 Mon.

 仕事。鉢花と観葉植物の水やり。久し振りに髪を染めたいと思った。うんと暗い焦げ茶色。

 

2022/08/02 Tue.

 皮膚科に行って、ニキビの薬と手荒れの薬を処方してもらう。塗り薬3種、ビタミン剤、漢方薬、二ヶ月分で約4,000円。低用量ピルもニキビに効くというけど、若干肌のハリが良くなったような気がするという程度で毎月3,300円払うだけの効果は自分には感じられなかったのでやめた。婦人科の男性医師が高圧的で苦手な感じだったのもある。皮膚科の薬だって劇的に効くというものでもなく、少し落ち着くような程度だし、薬をやめればたちまちぶり返す。30歳手前にもなってなんでニキビが治らないんだろうとしょっちゅう気が滅入るものの、もうこれは持病だと思って一生薬を飲み続けようかな。自分のニキビ面が嫌いで死にたくなることはままあるけど、社会で出くわすニキビへのスティグマによるところが大きい気がする。以前に化粧の話題になって、ニキビがひどいからろくに化粧ができないと言ったら「ナッツとかチョコとか食いよっとやろ」と返されて憤慨してひっくり返りそうになった。生活習慣が乱れているとか、寝具が不衛生だからだとか、よくそういうのが原因に挙げられるけど、じゃあ毎日きちんと3食食べて8時間寝て枕カバーを毎日取り換えている私は何なんだ。

 外見をどうにかしたい欲がさらに出てきて、ぼさぼさに傷んだ髪をなんとかすべくドラッグストアでシャンプーとトリートメント、ヘアマスク、アウトバストリートメントウォーターを購入。月の始めなのに財布の中身が心もとなくなってきた。髪を染めるどころじゃない。肌も髪もぼろぼろで、なんか栄養をきちんと吸収できていないとかなんじゃなかろうか。お腹は緩くなりがちだし。と思ったけど着実に脂肪は増えている。肌荒れ改善について検索してみるも、量産型のまとめサイトや胡散臭いクリニックのステマばかり表示されてうんざりする。ネット社会と言えど、正確で信頼な情報に即座にアクセスできないというのは不便だ。

 

2022/08/03 Wed.

 溜め込んだ課題をやっつけようと机に向かうも、30分程で猛烈な睡魔に襲われる。とても勉強にならないから少しだけ寝ようと思い、横になってMeditopia(瞑想アプリ)の音声を聴いていたら、次に目を開いたのは3時間後だった。

 

2022/08/04 Thu.

 母と買い物へ行く。髪飾り、LUSHの石鹸(シーベジタブルとアウトバックメイト)、ウィリアム・モリスのプリントの紙箱、小さいガラス花瓶、ガシャポンのきのこのフィギュアを購入。あと400歩歩けば今日の歩数は一万歩だった。シーベジタブルはライムとレモンとラベンダー、アウトバックメイトはユーカリレモングラス、ペパーミントの香りだそう。シトラス ゼストもレモンの香りが好みで気になった。お昼に飲んだミントとピンクグレープフルーツのジュースがおいしかった。

 

2022/08/05 Fri.

 20分勉強をして、机に突っ伏して1時間寝た。今日の勉強時間は計3時間。私にしてははかどった。課題を1科目分終わらせたので気分が良い。

 

2022/08/06 Sat.

 バイト。土曜日の割にはお客さんが少なかった。イラスト入りのポップを描けて楽しかった。夕方に散歩へ出かけて4,000歩ほど歩く。夜、オンライン勉強会に参加。おもしろかった。

 

2022/08/07 Sun.

 近所に住む父方の祖母が仏壇を買いたいというのでついて行く。祖母の家は2年前の水害で2階の床上1m40cm程まで浸水し、仏壇も泥にまみれてぐちゃぐちゃになったので処分せざるをえなかった。以来、ガラケーで写真に撮ってあった祖母宅の仏像を拡大コピーしたものを写真立てに入れて、ローテーブルに置いてアパートでの当座の仏壇としていた。祖母は線香等を買いに時々訪れていたものの、私は仏具屋へ足を踏み入れるのが初めてだった。仏具屋の店員さんにあれこれ解説をしてもらい、祖母のガラケーに保存してある仏像の写真を見せると、おもしろいことが発覚した

 水害以前まであった祖母宅の仏像は、祖母のおじいさんの代から伝わっていたもので、どこからか入手してきたものらしい。真ん中の阿弥陀如来像は高さ70㎝程もある大きなもので、それを収めるために仏壇は特別にしつらえてもらったものだった。普通は家庭用の仏像にそんな大きなものはないらしく、どうもお寺用の仏像かもしれないとのことだった。しかも、父方の宗教は浄土真宗の中の仏光寺派(ぶっこうじは)という宗派と聞いていて、実際に仏光寺派のお寺のお坊さんにお世話になってきていたが、実は当の仏像は真宗ではなく浄土宗のものだという。仏具屋の店員さんが言うには、中央の阿弥陀如来像の光背の形も、左右の脇侍も浄土宗のものだそうだ。浄土真宗であれば、阿弥陀如来像の光背の形が浄土宗のものとは異なり、また脇侍も像ではなく「九字名号」と「十字名号」という字が書かれた掛け軸を置くのがならわしなんだとか。仏光寺派のお坊さんは、光背の形こそ違えどとりあえず同じ阿弥陀如来像には違いないから、口うるさく言わずお経を上げてくれていたらしい。ちなみに浄土真宗の仏壇は、祖母が店内を見て「こういうので良い」と言っていたシンプルな木製の仏壇ではなく、きらきらしい金ぴかの仏壇が良いのだそうだ。

 結局、店頭に並ぶ仏壇の中ではお手頃なほうの価格の仏壇を購入することになった。「仏さん」を見下してはいけないからある程度高さのある仏壇にしなければならないとか、先祖供養のための花は造花だけでは駄目で生花も一本は飾らなければいけないとか、祖母も知らなかった細々した決まりも教わった。祖母は我が家では唯一信心深いというか、その世代の人並みの信仰心を持ち合わせている。亡くなった祖父は無宗教を掲げていて、その息子である父も特定の宗教への思い入れはない。ちなみに、反体制、反権力、反差別、非暴力といったごりごりの左翼マインドは祖父から父へ、そして私へと引き継がれている(つもり)。母は宗教となると、他人の大切な信仰であっても鼻で笑うような性格である。私はというと宗教へは昔から文化の一端としておもしろく知的好奇心を抱いていて、この頃は宗教と科学の違いは何だろうと無い知恵を絞って思索するのが楽しい始末だ。私が科学を真理だと信じているように、特定の宗教をこの世の真理だと信じている人もまたいるのだと想像を巡らせられるようになったのは割と最近になってからのことだ。笑われるのがオチなので母には言わないが。こんな祖母と母と私の三人で仏具屋へ行って大丈夫だろうか、嫁姑の間で私は板挟みになるんじゃなかろうかと内心ひやひやしていたものの、とりあえずは大丈夫だった。仏壇は後日祖母のアパートへ届けてもらい、お坊さんにお経を上げてもらって初めて単なる「物」ではなく「お内宮」として機能し始めるらしい。おもしろいなあ。

 我が家での信仰は、父母が信仰心に目覚めない限りはおそらく祖母の代で途絶えるだろう。私も、不安障害や憂うつで苦しかった時期こそ何か宗教を信仰してみようか、出家してみようかと考えたことこそあったけれども、結局実行には至らなかった。小学校低学年の頃に、友達と三人で宗教を作って遊んでいたことは覚えている。石にオリジナルの神様の絵を描いた偶像を祀って、砂の上に祭壇を作り鳥の羽根や松ぼっくりを供え、神様を讃える歌を作って歌いながら踊っていた。なぜそういう遊びを思いついたのかは覚えてないが、幼稚園でもらって読み込んでいた聖書物語の影響だろうか。幼稚園ではクリスマスタブローでガブリエルを演じたり、毎日お祈りの文言を唱えたりしていたが、信仰へは至らなかった。現在は、精神作用性薬物及びトランスパーソナル心理学に興味を持った繋がりで、チベット仏教やサント・ダイミといった宗教に関心を寄せている。とにかく、文学部比較文化学科卒の人間としてはリアルな宗教色に満ちた買い物に同行できて、とても興味深かった。